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2011年10月 3日 (月)

小田原への旅・その3・洋便VS和便編。

前回の続き。小学生の頃をふつふつと思い出しながら、通学路を歩きます。

懐かしい箱根の山、明神が岳が見えます。

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このどっしりとした山が好きでした。高学年になってこの山へ遠足で登ったときは感動しました。

低学年の頃は学校に行きたくなくて、母に手を引っ張られ、引きずられながらの通学路。途中に大きなガスタンクが見える。

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「お母さん、このタンクが爆発したら僕もお母さんも死んじゃうかな?」

「そおねえ、死んじゃうかもね」

「お母さんは死んじゃあやだよ」

そんな会話を引きずられながらした記憶がある。

この辺りは田んぼと空き地だった。当時の空き地にはほんとにドラエモンの空き地に有る土管が置いてあったんだよ!中にもぐったりしたが、犬の糞があったりしてね。その空き地で泥ダンゴに爆竹を埋めて投げ空中で破裂させるという戦争ごっこをよくやった。

ああ、この店。学校の側にありがちな文房具店。よく買ったよ、工作用紙。

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低学年のころは家の近所の駄菓子屋だったが、高学年になってお小遣いが値上がりして、この店に行くようになった。73年ごろか。

サッポロポテトというスナックが好きだったあ。これに牛乳をかけて食べるというレシピが袋に書いてあってよくやった。その後サッポロポテトバーベキュー味が出たときは衝撃的だった。何と旨いんだろうと感動した。ああいう料理みたいな味のスナックってなかなかない。いやカールがあったな。あれは50円だったのでギリギリ買えたのだ。カレーもチーズも好きだが、うす味とかいうのがあって、それも好きだった。

飲み物はラムネはそのうちグレープ味が出たし、ベビーコーラという安いコーラもあった気がする。この店では圧倒的にチェリオを飲んだよ。ファンタより安かったのかなあ?とにかく50円が自分の中で上限だった。

たまにコーラやペプシ、ファンタも飲んだなあ。ちょっと贅沢だったけど。ファンタでリンゴ味のがあった気がする。自販機も横長なドアを開けて自分で瓶を取り出し、本体の栓抜きで開けるのだ。好きだったTさんと一緒にファンタを買ったのはデートだったか。お嬢様系の彼女が栓を開けられないのを見て、私は横からさっと栓を開けてあげた。自分でもカッコイイと思ったよ。

さて、小学校に到着。

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私が入学する前の年に火事で焼け落ちて、新築だった校舎だ。この玄関前で撮った写真が今でもあるよ。半ズボンにブレザー姿。

♪記章にかざす富士の山~、気高き理想常に持ち~♪という校歌は今もうたえるよ。

学校の回りの道は良く覚えている。

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この先に、転校生のK君の家があったはずだ。クラスの男子3名でK君の家に遊びに行ったことがある。

この話には伏線があった。前回書いた、家の近所に住む友人N君の最大の自慢は、家のトイレが洋式だということだ。昭和40年代のこの町ではまだ洋式トイレはそれ程普及していなかったのだ。N君はクラスで洋式トイレの啓蒙活動を行った。彼は何故か洋式便器のことを略して「洋便」と呼んでいた。

「やっぱさあ、トイレは洋便だよな~」「え?N君なにそれ?」

「洋式だよ、洋便。学校のトイレも洋便にすればいいのにな~」「ふーん、アメリカ人の便所だ・・。」

そこに私が大好きなお嬢様タイプのTさんがやってきて「あ、うちの2階のトイレも洋便だよ」ええーーーっ!

「あ、そうなんだ、やっぱ洋便いいよね~。じゃあクラスで洋便同盟作ろうよ。家が洋便じゃないと入れないよ。Tさん入る?」

「あー、N君入る~、洋便同盟に入れてー」

あーーーっ!Tさんがああ!くやしーっ。激しくジェラしってしまった。

クラスには空前の洋便ブームが訪れた。疎外感を感じた我々和式ユーザーは、なんとか洋便とやらを経験しておこうと計画したのだ。

今度転校してきたK君が結構お坊ちゃまタイプだよな・・。きっと洋便を使わせてくれるに違いないと、仲の良い3人組はK君の家に遊びに行ったのだった。

案の定立派なお家だ。当時は1階が和式で2回が洋式というスタイルが多かった。早速2階のK君の部屋に突入。探検を繰り広げ、トイレをF君が発見した!そこには純白の洋便が輝いていた。

「うおおおーー、かっちょいい洋便!アメリカ人みたいだ!K君、してもいい?ここでおしっこしてもいい!?」F君が絶叫した。

「あ!なに開けてるんだよ、だめだよ、このトイレはオレ専用なの!1階のトイレを使ってよ!」

くうう、K君の予想外の抵抗に我々は歯軋りした。1階のトイレはきっと和式だ、それじゃあだめなんだ!我々は何度も懇願したが願いはかなわなかった・・。ガックリと肩を落として家に帰ったのだった・・。K君のケチ。それ程に洋便は当時ステータスだったのだ。

K君はその後また転校してしまった。お別れの日に、K君の家に見送りに行った。何故かK君は当時としては派手だった青いランドセルを背負って、車に乗ろうとしていた。なんでランドセルを背負っているのと聞いたら中を見せてくれた。ランドセルの中にはギッシリと小田原特産のミカンが詰っていた・・。それは今でもはっきりと覚えているよ。何でミカンが入っていたの?

さて、そんなことを思い出しながら踏み切りを渡る。

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ドラえもん電車だ。小田急も上信電鉄みたいになってきたな。

ああ、こういうカーブを覚えているんだよね。

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この先の高台にS君の家があったなあ・・。

S君はK君が転校した後に、京都から転校してきた。色白で苗字が公家みたいで、いかにもお坊ちゃまタイプだった。

既に和便同盟と化してしまった我々3人組は、今度はS君の家に白羽の矢を立てたのだ。きっと洋便に違いない・・・。今度こそ使わせてくれるかも。

早速S君の家に我々は遊びに行ったのだ。案の定、モダンな豪邸だった。お父さんは画家のようでアトリエには油絵が沢山あった。お洒落~。2階に突入した我々は探索を開始。F君がトイレを発見。そこにはなんと、水色の洋便が輝いていたのだ!

「うおおおーーーっ!すっげーかっちょいい水色洋便!アメリカ人みたいだ!S君、してもいい?ここでおしっこしてもいい?!」とF君は絶叫した。

「あ、そこはだめだったら!汚すとママに怒られちゃうんだよ、使っちゃだめ!1階の使ってよ!」

ええーーーっ?!K君よりおとなしい色白なS君がまさかそんな反抗的な態度を取るなんて、もう信じられないよ!けど、我々はおとなしく「じゃあいいよ・・、別にしたくないし・・」と、あっさり引き下がった。

しかし、これは作戦だった。S君がカルピスを1階のママのところに取りに行った隙に、我々はトイレに突入したのだ!

順番に焦りながらおしっこを敢行。悲願を成就したのだ!やった、俺たちはやった!別に立ったままおしっこをするので洋便だろうが関係ないが、結果が大切なのだ。ひとまわり成長した感じがした。それ程に洋便はステータスだったのだ。

当時はみんな完全に包茎だったから、焦って出したおしっこでトイレ内はびしょびしょ。きっとあとでS君はママに怒られたに違いない。S君ゴメン・・。

そんなことを思い出しながら歩くと小田原市役所。

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ここはあの頃、ウナギの養殖池じゃなかった?だよね?この辺は子供の頃結構うろうろ歩いたあたり。

おなかが空いたところでデニーズ発見。どこに旅をしても名物喰わんな。やっぱ一人だとリスキーなことはしない。慣れた場所へ。けど一人でファミレスってのも普段行かないからドキドキ。ハンバーグカレードリア。

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おいしうございました。

デニーズを出て、また元住んでいた家のほうを歩く。もと綿工場があったあたりに、仲の良い友人M君の住んでいたマンションを発見。1階でお父さんがお寿司屋さんをやっていたのだ。

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そういえばM君は、クラスで勃発した洋便VS和便の抗争には参加せず、傍観者だった。一度だけM君の家に遊びに行ったことがある。

リビングに入ると、あっと驚いた。部屋に面したドアが全開に開けられ内部で洋便が輝いていたのだ。ああ、M君も洋便同盟なのか・・。そのときは裏切られたような気がした。だから我々の和便同盟に加盟しなかったんだね。けど、友人だから気を使って洋便ユーザーだったことを黙っていたんだね。ありがとうM君・・。本物の友情に出会えた気がした。

けど考えれば閉じているはずのトイレのドアが全開になっている家なんてないよな。M君はむちゃくちゃ洋便を自慢したくてドアを開けておいたのだ。それ程に当時洋便はステータス・・・。

さて、そんなことを思い出しながら、友人で秀才だったH君の家のあたり。

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この歩道の下が川で当時は家1軒ごとに橋が掛かっていてお洒落だったな。H君の家は見つからなかった。彼は秀才だから洋便とかそんなことは言わなかったし・・。

住んでいた家のあとを通り過ぎてガードをくぐる。

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子供の頃はこのガードが嫌いだった。思えばあの爆音がだめだったのだろう。電車が来ないことを確認して一気に駆け抜けたものだ。また当時は線路が見える構造。あの頃の電車の車内トイレはぼっとんだった。そう、へたすりゃ糞便が降って来る可能性もあったのだ!今考えればきったなかったね、あの時代は・・。

この先に通っていた保育園。

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綺麗になっていたな。当時は緑の木造校舎。緑色の制服を着て通った。園内では黄色いスモッグに着替えるのだ。お遊戯とか楽しかったよ。おやつもあったし、ヤクルトも出た。ヤクルトは最初は瓶で紙のキャップだったぜ。牛乳みたいに針でキャップを抜くの。知らないでしょ?

この保育園、行事で仏像に甘茶をかけるのとかやったけど仏教系。見たら浄土宗だった。今私は浄土宗のお寺の檀家さん。因縁を感じるなあ。

ああ、この材木やさん覚えているよ。

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角の肉屋も看板だけあった。思い出してきたぞ。

ここから大雄山線の緑町駅に行く。少年院の側。

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無人駅。小田原から一駅だけど、よく父と乗った。私が疲れていたり、サービスで乗せてくれたんだろうな、小田原からすぐに着く駅。高学年時代の家が近いんだ。

大雄山線も変わったね。単線のローカル私鉄。

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昔はピンク色の可愛い車両だったな。

角にあった床屋のあと。タイルの壁が床屋さん。この床屋さんでいつも坊ちゃん刈り。

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顔が長いおじさんが切ってくれた。

シャッターが閉まっているところは、たこ焼きやさんがあったと思う。父がこのたこ焼きや影響を受けて、退職後実家でたこ焼き屋を始めてしまったことは想像がつく。

商店街の道を駅方面へ。母とも父ともよく歩いた。一人で歩いた記憶はない。

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ああ、懐かしい。この和菓子屋さん。この銀色の冷蔵庫のところでアイスクリームを売っていたんだ。

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アイスクリームと小倉アイスがあって私は小倉アイスがお気に入り。サーティーワンなんてない時代、あのかちゃかちゃの機械で冷蔵庫からアイスをすくい出し、モナカの容器に挟んでくれるんだ。母に良くねだって買ってもらった。もう売っていないのかな・・。

この通りの最後にあるのが小田原百貨店。もう違う店になっているね。ここの地下が食品売り場で母と買い物をした。

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賑やかな路地に入ると。ドンキがあったよ。ここは確か長崎屋だったんじゃあ?

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この通りに4年生の時だったかマクドナルドが出来て行ったなあ。それは凄い話題だったんだ。今はマックもないね・・。

ナックとオレンジビルだ。ここはお洒落な感じだったんだ。

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しざわというデパートが無くなっていた。日帰り温泉施設になっていたよ・・。デパートが無くなっていたね、小田原・・。

小田原城のお堀に出る。

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塀とか門が増設されている。翌日じっくり見学することにする。

横道に入って、小田原市民会館。この建物は変わらないねえ。

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ここのホールで市のコンテストの合唱や鼓笛のステージに立った。小学生にして大きなライブの場数は踏んでいたな。

魚の展覧会やお菓子の展覧会にも出掛けた。巨大なイカがあったり、レモンケーキが高く積み上げられていて数を当てると全部もらえるとか、楽しかったな。

この歩道橋の上で、父と箱根駅伝のランナーを眺めた。父は結構駅伝が好きだったのだ。この歩道橋は穴場の観戦ポイントだったのだ。

ここから歓楽街の方へ歩く。宮小路といって大人の町だ。当時子供だった私になじみはない。しかし今夜の宿はここに有る。

ホテル・ボストンイン小田原。ビジネスホテルですよ。

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周囲はエッチな雰囲気。今夜は大人の夜となるのかな・・・?

次回に続く~。

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