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2011年10月 2日 (日)

小田原への旅・その2・子供の頃住んでいた編。

ここ一週間は仕事疲れで更新できませんでしたが、復活できるかな?小田原一人旅の続きです。私の幼い頃(小学5年生まで)を辿る旅なので、読んでいる方には良くわからないと思いますが・・・、自分の為に書いてます。

さて、小田原駅の豹変ぶりに驚き、東側から出ました。おお、駅前の箱根登山デパートが、あまり姿も変えずに。

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名前は変わっていますが、私の小学生の頃から建物は同じです。私が赤ちゃんの頃の写真にもありましたから、誕生前から建っているとして築50年もの。耐震は大丈夫かな?

このデパートの最上階にあった食堂は家族でよく行きました。ラーメンの味はここで覚えたようなもの。屋上にお金を入れると動く木馬とかあったなあ。紙コップのジュースの販売機とか。ガムの自動販売機もあったなあ。

けど、現在ではデパートではなく、中はエステとか眼鏡屋とかになっています。最上階の食堂もライオンになっていた。

ああ、ここで大学4年の時、就職して沼津で研修中の彼女と落ち合ったな。この食堂に行こうとしたが、彼女は気にいらなかったみたいで、面倒くさくなった私の態度に泣き出しちゃって・・。デパート裏の通りのイタリアンに行き直したんだっけ。思い出すなあ。

ちょっとあまりの豹変ぶりに気後れした私は、反対側の出口へ。

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こっちもちょっと変わったね。大学3年の頃、大阪の友人が帰省するので、深夜私の車でここまで送ってきた。始発までやることもなく、駅のトイレが開いてなかったので、このロータリーの真ん中にあった植え込みに二人で立ちションした記憶が・・。ごめんなさい。

この駅西側周辺には友達の家が沢山あったので、そこを探索するのも楽しみ。

ああ、ここはクラスで一番頭のよかった女子のUさんの家だ。洋品店をやってたので覚えている。

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当時の私は歌や楽器が上手で、小学校の鼓笛や合唱の選抜チームに入っていた。その時このUさんが作曲した歌がコンクールで入賞して、その曲を歌うことになった。どこかデカいホールでUさんの指揮で唄った記憶があるよ。♪廊下のすーみの木の箱はー、いつもみんながじゃまにする~♪という歌だったな。

このUさんのお友達のSさんが私の初恋の人。続いて同じ仲間のTさんが2番目に恋した人。うーん、この二人の家は見つからない・・。かなりこの辺り変わってしまった。

ガードをくぐって、昔住んでいた家に向かう。

お、これは仲の良かった友人N君の家だ。しかし、この前の道まだ未舗装だよ。小田原の道は裏の細い通りは今回歩いて未舗装の道が多かったな。うちのこの田舎だって殆ど舗装してあるのに、ちょっと道路行政遅れているぞ。

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N君とは良く遊んだな。N君の最大の自慢は家のトイレが洋式だったことだ。笑っちゃうようだが、昭和40年代当時は洋式トイレなんて公共の場所にもないしとても珍しかった。小学校のトイレだって一部ぼっとんだったし低学年は男女一緒だったなあ。ちょっと洒落た家だと、2階のトイレを洋式にしていた。N君の家もそうだったが、ある日1階のトイレも洋式に工事するので見に来てと招待されて見に行った(笑)。それほど洋式トイレはステータスだったのだ。

さて、この先に私の家はあった。かなり駅から近かったんだなあ。徒歩10分もかからない。ただ新幹線の高架が近くてうるさかったなあ。

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うへー、もう廃墟のようだなあ・・。いや、確かに窓が外されているし、もう誰も住んでいないよう。そろそろ取り壊しなのだろうか?小学校3年から5年にかけて住んだ家。父の仕事の関係の官舎だ。父は転勤が多かったので、ずっと官舎暮らしだった。

当時で築20年以上だった気がしたのでもう築50年は軽く経っているだろう。

けど当時では珍しいメゾネットタイプだ。内部は2階建てになっている。

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自転車は置いてあるけど住んだいるのかなあ?

風が通るし、なかなか住みやすい家だった。トイレも引っ越してすぐに水洗になった。和式だったがな。

この前の通りはこんなに狭かったのか。

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隣に住む3年生の男の子と仲が良かった。二人で遊ぶ時の合図は、どちらかが玄関前から右手の石垣にボールをぶつけて一人キャッチボールをする。すると家から出てきて一緒に遊ぶのだ。

近所にあった小田原少年院。ここが父の職場。ここで法務教官を父はやっていた。職場が近くて良いねえ。

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この広場でその3年の男の子とカラーボール野球をしたなあ。

お、このポストはまだあったのか!

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良くこの上によじ登ったよなあ。このてっぺんに座るのが大好きだったあ。

少年院の建物は既に取り壊されていた。

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移転するのだろうか。ここにあった建物は木造の美しいピンク色をしていた。その建物を水彩画に写生して学校のコンクールで入賞したなあ。

ここがバッターボックスで、カラーボールを打って前の家の庭に入ったらホームラン。

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結構カラーボールで飛ばしたもんだ。一度軟球でやったらやっぱこの家のガラスを割って怒られたなあ。

さあ、次は小学校までの通学路を歩こう。小田急線と少年院の塀に挟まれた道。

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この道も狭く感じるね。このフェンスを手で擦りながら歩いたあの頃。

この鉄塔も懐かしい。ここにあった仲の良い友達二人が住んでいた団地はもう無くて住宅に。

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小学生の自分は、このパラボラが動いていると思い込んで譲らなかった。全く動いていない。けど歩きながら見ていると動いているような気がするのだ。

ここは確か豆腐屋さんだった気がするけど。

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豆腐はボウルを持って買いに行くんだよ。水の中からすくってボウルの水の中に入れてもらう。早朝、父と納豆を買いに行った思い出がある。麦わらに包まれている納豆を。店の中の大豆の匂いを覚えている。

この歩道の位置は川が流れていた。今は暗きょになってるね。ここが保育園から小学2年生まで住んだ家があった辺り。

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この川の上流に綿工場があってね、そこの廃液で川が赤や青に染まって凄い匂いがした。川がとんでもない色になって今じゃ考えられないけど、当時は基準も無くて垂れ流しだった。公害のピークの時代。魚は一匹もいなかった。

信号の角には駄菓子屋さんがあって、10円を握って毎日通った。夏はモナカの容器でカキ氷を買った。水飴、イチゴ飴、くじ、酢イカ、ラムネ、カレーあられ、チューブに入ったゼリー、黒糖棒、串に刺さったカステラ、食べられるコマ、ショートニングのヨーグルト、フィリックスガム、オレンジガム、グッピーラムネ、ベビーラーメン、ニッキの味がする舐める紙、ビニールジュース(今はチューチューという)、匂いのする消しゴム、紙石鹸、書き方鉛筆、ジャポニカ学習帳、切り出しナイフ、色々買った。チクロという合成甘味料が話題になり、合成着色料で舌が赤や緑色になった時代。

家の周りは商店が沢山あった。

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手前の酒屋さん、妹が同級生で兄弟で遊んでもらった。人生ゲームをここでよくやったなあ。隣の美容室は母の行きつけ。隣の白いビルは以前は空き地でよく忍び込んだ。ビルにスナックが入っていてラーメンが1000円だったと話題になった。

で、我が家はもう無い・・。結構以前にアパートが建った。

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白い車が並ぶ辺りに家があった。やはり官舎で平屋建てで隣の家と繋がっていた。風呂は外に小屋があって隣の家と共同で使った。庭がかなり広かった。このアパートからフェンスまでの広さ。父が車を買ってガレージを自作したのは驚いた。板塀を可動式にしたり。庭のミカンの木はずっとならなかったけど、引っ越した後にミカンがなったと聞いて悔しかった。

家の面影は全く無かった・・。

家の前にあった三角公園。ここが憩いの場所。

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半分の大きさになってしまっていた・・。何故か先端の細くなっている場所がお気に入りだった。昔はそこは通り抜けられた。小学校から私はそこから入って家に帰った。砂場やうんていがあった。大きなイチョウの木があって、銀杏が取れた。藤棚の毛虫が怖かった。

正面に箱根の山(明神が岳)が見えて、夕方山が赤く染まるまで遊んだ。この時期、お尻に白い綿をつけた小さな羽虫を追いかけた。薄暗くなる頃に母がご飯が出来たよと呼びに来るんだ。

よくハムカツパンを買ってもらった八百屋の前を通って、大雄山線の踏切を渡ると、そろばん塾に通った寺町公民館。

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習い事が嫌いだった私がよく通ったものだ。5級まで行ってやめたな。庭にあった火のみやぐらは無くなっていた。

この階段で「ちよこれいと」とか言ってじゃんけんする遊びを塾が始まるまでやっていた。

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この反対側にある医者。家族がお世話になっていた。物凄く洒落た洋館だ。玄関前なんて凝っている。

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この庭に鉄棒があって、よく遊んだ。庭を子供に開放していたのだ。医者はワーゲンのビートルに乗っていて洒落ていたなあ。昔は往診といって医者が家に来てくれたのだ。ビートルに乗って看護婦さんと二人できてくれた。

その先、お、ここも同級生のK君の家だ。釣具屋をやっていた。店番をしているお母さんがK君にそっくりでね。

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もうやっていないのか。父が酒匂川で鮎釣をやっていて、ここでコロガシ釣のオモリや針を買っていたなあ。オモリに付いている糸を店で火で炙って貰っていたのを覚えているがあれはどういう意味だったのかなあ。針は紙の包みに沢山入っていたな。父は家でコロガシの仕掛けを作っていたよ。

次は家に戻って小学校への通学路を歩く。この道も今見ると狭いね。

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ラーメン屋さんは当時あったかな?友人F君の材木屋は無くなっていた。集団登校で列を作って歩いたな。けど低学年の頃学校に行きたくなくってね、母にこの道を腕を引っ張られ引きずられて泣きながら行った事がある。当時は不登校なんて絶対に許されなかったのだ。

この道は思い出が多いよ・・。

なんか私の思い出話で面白くないよね。けど、これは続くのだ~。

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